みづが生まれるまで



初めての妊娠だった為、病院に行ったのは5週目の頃でした。
予定日は1999年12月7日。私の計画ギリギリでした。

楽しみや不安が付きまといましたが、妊娠ライフは、まぁ順調に過ぎ、1999年11月30日夕方、おしるしがあり、徐々に陣痛らしい痛みが来ました。おしるしがあったことだけ病院に連絡しておき入院に備えていろいろ確認をしておく。
波も痛みもバラバラでよくわからず、「こんなもんかぁ」と思っていたが、それが甘かったと後から思い知らされる事になる。
一晩家で過ごす事になったが・・・緊張と不安で、一睡もできずに一晩釣りゲームをやって過ごしていた・・・

朝になり旦那と一緒に8時ごろ病院に行きそのまま入院。
しばらく一緒にいてくれたが旦那は仕事があったので、前日から連絡を取り合っていた姉と行き違いで行ってしまった。
そのごろから、陣痛がほとんどなくなってしまう。姉は、もう産まれているだろう♪てな感じで、4ヶ月ちょいの赤ちゃんを連れて来てくれたけど、私はまだ歩いてる・・・そのうち実家の両親も来てくれるが大きなお腹で元気に出迎える私に驚いていた。

旦那も、早々と仕事を切り上げて病院に来るが産まれる気配は全然ない。定期的に心音やらを測定する機械を着けられるがその度に途中で看護婦さんがやってきて「赤ちゃん寝ているみたいだから、起こすからね〜」と、得体の知れない物をお腹に当てられ【ビ〜〜〜ッ】と電気みたいなので刺激をあたえられた。みづは、お腹の中でよく寝ていたらしく陣痛が遠退いたらしい。何だかんだと、夜になり姉親子と父が帰宅し、母が残ってくれた。

父も仕事だったし、姉も旦那さんが帰ってくるしと言う事で、母を残して帰って行ったのだがあれは何時頃だったのだろう?夜も更けてきて「陣痛にそなえて寝てなさいよ〜」と、看護婦さんに言われるが、この頃には痛みが強くなり寝ていられなくなる。 母が、眠い目をこすりながらも腰をさすってくれ、いろいろ声をかけてくれていた。あまりの痛さに母にタオルを投げたのも覚えている。
しばらく時間を計り気にしていた旦那が、次の日も仕事だからと寝てしまった。当時は、あれが無性に腹が立ったのを覚えている。

陣痛の合間に睡魔に襲われるが、すぐに次の波が来て丸2日間寝ずに過ごす事になった。
「もうお腹切って〜〜〜〜〜!!」と何度叫んだか・・・

朝になり、会社に遅れると電話をした旦那が、やっぱりもう行くと言い出したのと、再び姉親子が来てくれたのは覚えているが、その頃の記憶が曖昧であまりよく覚えていない。
この日は出産ラッシュだったようで夜中に忘れられる事が度々。私が入院してから24時間の間に陣痛室にいた妊婦さんは3人変わった・・・4人目の人がいつ入ってきたかは覚えてない・・・3人産まれた事でかなり私はあせっていた。
あせってもどうにも出来ないのが事実だけど・・・

旦那が仕事に行ってすぐくらいだと思うが、ついに分娩台に!
分娩台に上がってから看護婦さんが「旦那さん呼んであげて〜」と言っていたので、「さっき、会社に・・・」と応えたら、「そこにいるよ。」と返事が返ってきた。
分娩室に入ってすぐ姉が電話して呼び戻してくれていたのだった。
立会い出産希望だった旦那は笑いながら分娩室に入ってきた。

分娩台に上がってからどのくらい時間が経ったのか覚えてはいないが、痛みの合間に旦那がお茶を飲ませてくれていた。
破水は先生の手で。そこからは、あまり時間はかからなかったと思うけど、やっと!ついに!産まれて来ました。
縫合の時、無意識のうちに妙に足に力が入ってらしくて、先生に「足の力、すごい!」と叩かれながら言われる。
後処置も終わりそのまま分娩台で寝ていた私。安心してお腹は空いていたのに、お昼ごはんに出されたラーメンは食べる事が出来ませんでした。

1999年12月2日、10時7分、分娩時間25時間20分。

考えていた名前の候補の中から、産まれた瞬間に旦那が『美月』と命名


陣痛室に戻ってから、看護婦さんに話をされたところ、「部屋がいっぱいで困ってるんだけど、今晩だけ検診の時に使うベットのある部屋でもいい?」と聞かれた。
「私はどこでもいいですよ〜。」と答えていたが、結局何とか1つだけ部屋を空けてくれたので、他の部屋よりはかなり狭い部屋で2晩過ごした。
動けるようになってから何度も新生児室に見に行った。
ガラス越しに見るみづの顔は、旦那と同じ顔をしてたな〜。

2日後、普通の部屋に移れることになったけど、それまでいた部屋がいかに狭かったが実感された。
泊まれないから付き添いなし、赤ちゃんが部屋に来たら人が来ても座るとこがないくらい狭かったからね・・・

母乳指導・沐浴指導etcすべての事が初めてなだけに、ドキドキしながらいろいろ指導を受け母親としての実感を味わいながら入院生活を送る。
が、入院中もしょっちゅう忘れられていた・・・

1999年12月8日、母子ともに経過良好で退院。





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